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知る人ぞ知る、知らない人は誰も知らない ZoneTimeは大学時代に筆者が組んでいたバンド。名前は英和/和英辞書を使って自分で考えた。ロックを中心としたバンドだったし、筆者が当時填っていたのはLED ZEPPELINなどのブリティッシュロックだったから、それがロックのスタンダード=標準なら、日本はローカル=地方であると。イギリスで標準と言えばグリニッチの標準時間であり、それは英語でStandard Timeであると。すると日本は地方時間であるから ZoneTimeであると。そしてZで始まるから響きが重くてロックバンドらしいと。以上の屁理屈で決定したのだった。
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1974年の葉山長者ヶ崎海岸の某私大広告学研究会・学生キャンプストアにてライブ演奏中の ZoneTime。2ヶ月間葉山で合宿だったので髪の毛をばっさりと切っている。後ろには懐かしのエルク・バイキング(当時の国産最大出力のアンプ)が見える。この時は浜辺にあるキャンストに(楽器などの機材の不寝番も兼ねて)2ヶ月寝泊まりしたのだが、一緒に置いといたLes Paulは錆びもせず反りもせず無事だったのは奇跡だ。ジルジャンのシンバルは物の見事に真っ黒に変色したが |
基本的な編成は典型的な三人バンド。つまりギターとベースとドラム。ドラムは二人居たので曲によって異なる組合せ。三人バンドであるから必然的にクリームやBBAが中心レパートリー。練習はオーディオルームを兼ねた自宅スタジオ。録音機材があったので生録を実践。それが高じて大学3年の秋から4年にかけて、ほぼ全ての期間をアルバム作りに費やした。全曲オリジナル。
卒業後も暫くは練習したり、あるいは得意先のパーティに出演したりしていたが、いつの間にか疎遠となり、この ZoneTimeが再結成されることは永久にない。まぁ青春時代の思い出&目一杯馬鹿やったぜぇ〜〜って奴である。
それにしてもボーカルに恵まれないバンドは辛かったのであった。 |
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自主制作LPのライナーノーツに使った写真。右に見えるのは京王技研(当時。今のKORG)のシンセサイザー。持っているのはマーチンではなくてS-YAIRI。自宅リスニングルームにて。なお拡大写真に記載されているプロフィールがジョークなのは言うまでもない |
ところでZoneTime以前のバンド活動は高校時代に遡る。高校三年で落第して【苦笑】高校四年になっちゃった時に、たまたま同じクラスでジャズバンドをやっている連中が居て、学園祭(日吉祭)に出るのにギターが居ないから一緒にやらないかと誘われたのである。但し、筆者としてはジャズなんかやったことがない。そもそもバンドに誘われた理由はギターの腕前よりも本物のLes Paulを持っていたから[爆笑]だが、しかしバンドのレパートリーはモダン・ジャズと言うよりはクロスオーバーあるいはジャズ・ロック系だと言う。そこで練習に参加したらChicagoやハービー・ハンコック(ウォーター・メロンマン)がメインだったので大きな問題はなかった。ストレート・ノー・チェイサーなんかもやったが、これはたまたまリフをコピーしていたし、コード進行はブルースだから譜面の読めない筆者でも何とかなった。
かくて日吉祭で生まれて初めてステージに立ったのだが、幸いにして、我々のバンドと直接競合するジャズバンドは一つしかなく、しかもそっちは全員が楽器を始めたばかりと言う凄いレベルだったので恥をかかずにすんだ。ちなみに、その超初心者バンドに後のZoneTimeのベースとドラムが居たと言うことをかなり後で知った。 |
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某私大高校日吉祭にて個人的なステージ・デビュー
足元に自作改造型ワウワウ+ブースター
1971年・秋
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ジャズバンドは客演的な参加だったので、やがて関係なくなったのだが、大学に入ったら、すぐ近所に住んでいる上にドラムを叩いていると言うクラスメイトが居て、即座にバンド結成となった。この時点で我が家にはリスニング・ルームが完成していたので音楽環境バンド環境は完璧であり、必要なメンバーを増やしていったのだった。
そして数ヶ月後。「フィルモア・ウエスト:ミュージック・イン」と言う、まるっきりパロディみたいなネーミングのコンサート・イベントがあり、ZoneTimeは図々しくもステージ・デビューを果たした。1972年10月19日のことである。 |
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ZoneTime初ステージ出番前
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JenのCryBabyとBigMuff
当時としては非常に珍しいものだった
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自分としてはJimmy Pageになっている状態
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バンド紹介の図
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三人バンドはボーカルもこなさなければいけない
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この初ステージで人前での演奏に味をしめた我々は図々しくも自主企画のダンパーや三田祭への出演をしながらバンド活動に勤しんだ。
活動として特に大きかったのは某私大三田祭への自主参加。「独立団体:フィルモア・ウェスト」として正式にブース(教室)を確保し、恐らく日本の大学祭で最初の生バンド入りディスコを運営したのである。メンバー各自が自宅からくすねて来た高級ウイスキーを使った「コークハイ」が好評で、驚いたことに後で三田祭に納入していた日本コカコーラの社員に聞いたら我々のブースのコーラの売り上げがトップだったらしい。つまり、それぐらい人が入って儲かったのである。 |
ところでバンド活動とは別に個人的なギター修得遍歴について簡単に触れておくと、まず中学の時にクラシックギターを買って貰ったが、これはたったの三ヶ月で挫折(と言う話はギター遍歴のところで触れた)。譜面の読めない僕ちゃんは教則本は何の役にも立たなかったのだった。その数年後に今度はYAMAHAのセミアコとベースを買って、The Ventures、寺内タケシ、歌謡曲(のイントロとか間奏)あるいはThe Beatlesなどを全く脈絡無く練習。この頃はどちらかというとギターよりも歌謡曲のベース・パートをコピーするのが楽しかった。この結果、今でもよほど特殊なコード進行でない限り、ベースならはじめての曲でも大抵は合わせて弾けちゃう。なんてことをやって肝心のギターがちっともうまくならないうちにLes Paulが来て、その日からいきなりLED ZEPPELINの1枚目と2枚目の集中練習を開始。やっぱり大事なのはモチベーションか?
で、とにかく、この結果、それから40年経った今でもギター・ストラップは目一杯長いし、指癖までJimmy Page的なのだが、いわゆるペンタトニック系ボックスポジションとブルース進行を自己流で修得してロック系のバンドならやっていける状態になった。
その後はバンドの構成からBBAジャパン・ライブとかディープ・パープルとかの定番をコピーしてレパートリーを増やしていった。
しかし。やがてエディ・ヴァン・ヘイレンとかイングベイ・マルムスティーンとかの時代になって、どう考えても絶対に弾けないどうやって弾いているか分からないことになっちゃったのでコピーと言うか新曲修得は完全に挫折。
と言うわけで、筆者のギターは(一度でも聴いたことがある人は全員同じ事を言うのだが)基本的には永久にLED ZEPPELINで止まっているのであるのである。 |
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■ アルバム制作
ピンクフロイドのようなシュールなジャケット。ベーシストの友人の精密イラストのセミプロ君の蝶々のイラストを写真と合成。もちろん、当時はAdobe Photoshopなんて無いから印刷屋さんの毛抜き合わせ技術によるもの。ジャケットの裏面には「健康のため聴きすぎに注意しましょう」とある |
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大学4年の一年間のほぼ全部を費やして自主制作した ZoneTimeの集大成が、このアルバム: ZoneTime。全曲オリジナルは今から考えても立派と自画自賛。録音は全て自宅リスニングルームで行った。最初に2tr38にリズムセクションを録り、それを4トラック/4チャンネルのTEACに移してから多重録音。場合によってはさらにそれを繰り返して、例えばギターは筆者一人なのに最大で6本重ねるなど凝りに凝ったことをやりまくったが、アナログ録音時代だったから、その分、確実に音質とピッチは劣化した。HardDiskレコーディングなんて概念すらなかった時代の産物である。
なお、この時に曲を作ってレコーディングしてミキシングして完成させるという作業がいかに時間が掛かるかを知ったので、同じ事を今更やる気は全くない。ジャンボ宝くじが当たって仕事から解放されて最新機材一式を揃えるとか、そう言うことがなければ不可能なわけである。日本人って悲しい。 |
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オリジナルの2tr38テープ。オーディオ界のシーラカンス
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多重録音をした4トラックテープ。これは三葉虫?【笑】
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「冗談は本気で」が人生のコンセプトであるから、
架空のレーベル「La Maison des Temps(時の家)」のロゴまで作成
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わざわざライナーノーツまでフルカラーで作成。曲目解説からバンドの歴史までを網羅。中身のコンセプトはもちろん、徹底したジョーク。こう言うことに凝りすぎたために制作予算が膨れあがったのだった
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地 方 時
ZoneTime
- どこにも行かないで (Prologue)
- コーヒーカップ (Coffee Cup)
- 雲 (Cloud)
- 大貧民 (The Big Needy)
- Nightmare
- さよならバレンタイン (Bye Bye Vallentine)
- ピープル (People)
- いつもの筆者 ('Cause I Heard Your Grapevine)
- オレンジ色のシャツ (Autumn in Town)
- 柊通 (Hiiragi Avenue)
- 雪あかり (Snowblink)
- やさしく別れて (Leave Me Tenderly)
- 嵐の過ぎた朝 (Then The Morning Has Come)
- 忘れないで (Epilogue)
produced by ZoneTime
(c)1976, 2001, 2002
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と言うわけでアルバムZoneTimeは元音源がオープンリールテープ。制作したのがアナログ(LP)レコード。今どき、アナログ・レコード・プレーヤなんて家にあるもんじゃない。マスターテープからダイレクトにカセットテープにダビングしたものも作ってはあるが、最近はカセットだって使わないのが当たり前。つまり要するに、ちょっとZoneTimeを聴きたいと言う場合に非常に不便だったのである。
そこで、意を決して(やや大袈裟)2000年5月にZoneTimeの全てをデジタイズして音楽CDに焼いた。そして、その後に入手したエプソンPM-780Cを使ってCDサイズ版のジャケットを完璧に仕上げた。
勿論、iTunesを使ってMP3にも変換したのでPowerBook G4でも、いつでも聴くことが出来る。
なおCDの方がLPより収録時間が長いので、LPの時には収録を諦めた2曲を納めることが出来た。また、カセット版しか無かったアルバム収録曲以外の曲を収めた特別編集版CDも作成。ここに大学時代のバンド生活の集大成を音質劣化と無縁なままで永久保存することが出来た。まったくデジタル時代は便利である。 |
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■ 終焉
大学時代のバンド活動をアルバム制作で締めくくったZoneTimeは卒業後も得意先のパーティや忘年会など、演奏する機会があればバンド活動を行った。しかし段々とメンバーそれぞれのライフスタイルが変化するに従って自然解散となった。 |
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当時得意先だった某デザイン事務所の忘年パーティにて。ドラムはプロ、トランペットは殆ど初心者と言うハチャメチャな構成だったが、プロのドラムは素晴らしく過去に経験したことがないほどに演奏しやすかった記憶がある。なんたって絶対にリズムが狂わず、しかもバンド全体をドライブしてくれたからである。足元は自作のエフェクターボード |
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当時の得意先の結婚披露パーティにて
この時のピックアップは335から移植したGibson Dirty Fingers
後ろにMUSICMAN 112RPが見える
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Les Paulのハイポジションは弾きにくい
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某バイクショップのパーティにて
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かくてZoneTimeとしてのバンド活動はお仕舞いとなったが、それから10数年を経てからは、また色々とバンド演奏を楽しんでいる。50歳を過ぎたおぢさんになってもロックが出来るのは精神衛生上非常に宜しいと思う今日この頃である♪ |
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■ 附記:
かつての ZoneTimeの二人のドラマーのうちの一人が食道癌で死去@2004.10.26
享年50歳。合掌 |
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